夜明けの背中

 ファーガスの冬は長く、そして厳しい季節だ。屋根の上に降り積もった雪を払い落とす領民に声をかけられながら、一節ぶりに屋敷に戻ったシルヴァンは先ほどから違和感に内心首を傾げていた。
「お帰りなさいませ、シルヴァン様」
「ああ」
 脱いだ外套を手渡しながら、シルヴァンはその相手に怪訝な顔をする。普段ならば祖父の代から仕えている従者が小言を交えつつ留守の間の出来事を報告してくれるというのは暗黙の了解だ。けれど、今日出迎えたのはここ数年の間に屋敷で働くようになった年若い青年だった。父が彼を連れて出払っているのだろうかと推測しながら、シルヴァンは周囲を確認する。
「父上は? ……イングリットは? また訓練か?」
 女の所在を問えば従者は顔色を変え「奥様は伏せっております」としか言わなかった。その返事に彼を置いて、シルヴァンは早歩きで寝所へと足を向けた。
 ――シルヴァンが父の跡を継いだのは、三年ほど前の話だ。イングリットと婚姻をしてから数節も経たぬうちの出来事で、当初は父上は何の嫌がらせかとおもわずぼやいていた自分を妻は叱り飛ばし、時に励ましてくれたからこそ、今のゴーティエ辺境伯としてのシルヴァンは成り立っている。
 ゴーティエの屋敷に戻れば、いつも妻はまっすぐと背を伸ばして「お帰りなさい」と微笑む。あの声を聞くと不思議なことに疲労はどこかへと吹き飛んでしまうのだ。その声も聞こえず、姿も見せぬイングリットのことを心配するのは仕方のないことだろう。
 階段を上り、慌てて扉を叩いても彼女の声はしない――けれど「入れ」という低い男の声にシルヴァンは肩を揺らした。寝室に夫ではない男を招き入れるという行為に不貞を考えるのは致し方ない流れだが、しかしその聞き覚えがありすぎる声にシルヴァンの頭の中からその想像は一瞬で吹き飛んでいった。
 入れと許可を得たので入室すると、そこにいたのは椅子に触っているフラルダリウス公爵であった。彼は寝具の上ですうすうと寝息を立てている妻を見つめていたようだった。机の上に氷水と布巾が置いてあるのを横目で確認し「熱か?」とイングリットの額に手を置く。さほど熱さは感じないが、と彼女の様子を伺っていると後ろから声をかけられた。
「お前の父親は医者を村まで送りに行った。イングリットは今はどうも眠気が強いらしくてな」
「熱は下がったのか? ……いや、なんでお前いるんだ?」
 一週間ほど前にフェルディアでの会合で顔を合わせた時は明後日にはフラルダリウスに戻ると言っていたのを覚えているし、久しぶりだからとアッシュやドゥドゥーも巻き込んで王が手配した客室で酒を飲んだのも記憶に新しい。
 尋ねるとフェリクスは頷きながら椅子を立ち、椅子に座れと指差した。言われるがままに座ると、フェリクスは少し気まずそうな顔をして唇を動かす。
「ちょうどお前が城を出て次の日の明朝のことだった。ゴーティエから早駆けの天馬が降りたってな、主人に伝えなくてはならない火急の話だったが、代わりに俺たちが聞いた。……先に謝るぞ。すまん」
 その謝罪に、シルヴァンは穏やかに寝ている妻の横顔と、申し訳なさそうな表情を見せる幼馴染を見比べた。
 シルヴァンは次の日にはフェルディアを出てガルグ=マクに視察という名の恩師であるベレトの様子を確認してほしいというディミトリのお願いに負けてすぐにはゴーティエ領に戻らなかったのだ。そのため、予定より遅れての帰還となるとは伝令を出したが、行き違いになったのだろう。そのこと自体はよくあることだ。
 けれども、天馬を出すとは相当だ。余程具合が悪かったのか、生命が危ぶまれるほどだったのではないか。そんな恐怖に寝ている妻の手を無意識に握っていたようで、彼女が身動ぐ。は、と息を飲み込みながらイングリットの様子を見つめていると、妻は何度か瞬きを繰り返した後にシルヴァンに微笑んだ。
「……お帰りなさい、あなた」
 こんな格好でごめんなさい、と起き上がろうとする彼女の肩に顔を埋める。花の匂いと柔らかな肌、シルヴァンを落ち着かせるその温度に恐怖はゆっくりとかき消えていく。
「……ただいま」
 今は肩まで伸びた稲穂の色をした髪を手で梳かしながら、妻の耳朶を指で引っ掻く。その仕草に白い頬に一瞬で赤い花が咲いた。何度も身体を重ねたというのに、まるで生娘のような反応を見せる彼女が愛おしい。緊張している唇を奪おうとしたところで、イングリットに肩を押され後ろからは頭部にきつい拳骨を食らった。振り返ると目の据わったフェリクスが立っているので、シルヴァンは苦笑いを浮かべるしかなかった。
「俺もいるのを忘れていないか」
「悪かった! 悪かったからもう一回はやめろ!」
 格闘技はこの男の得意科目だったことを思い出し謝り倒していたところで、腕の中にいる妻が些か気持ち悪そうに口を手で抑えていることに気づく。イングリット、と慌てて名前を呼べば彼女は水を取ってほしいと返すだけだった。机の上にある水差しを持ち、フェリクスが杯に水を注いでいる。
「イングリット、どこが悪いんだ。馬を飛ばすぐらいだったんだよな? ……その」
「あ、あなたが考えているような病気ではないわ。シルヴァン、子が出来たのよ」
「へ」
 いまこの瞬間、フォドラで一番間抜けな声を上げたとシルヴァンは自負すらしていた。そんな夫を無視してイングリットは腹を撫でる。
「ここ数日ご飯を食べても食べても吐き出してしまって、そんなこといままで一度もなかったからお医者様に見てもらったのよ。そうしたら懐妊だと言われてしまって」
 あまりの衝撃に口は開いたままだったが、ゆっくりと頭の中は動き出していた。フェリクスの謝罪はつまり――。そんなシルヴァンの想像にフェリクスはすぐさまに答えをくれた。
「……この事に関してはその場に居合わせた俺とディミトリ、そしてドゥドゥーとアッシュも知っている。昨日にはアネットとメルセデスにも伝令はついた頃だろうよ」
 シルヴァンの頭の中では申し訳なさそうな陛下の顔が浮かんでいた。最後に知ったのが父親の俺ってどうよ、と頭を抱えるシルヴァンに「いいじゃない。順番なんて」と切り捨てていくのは頼もしい妻だ。
 そんな妻の腹を見つめながら、シルヴァンは反射的に言葉を紡いでいた。
「……父親に、なるのか」
 脳裏に浮かぶのは、いつだって自分を疎ましく思う兄の後ろ姿だった。兄上、とふと口から出ていた言葉にイングリットが肩を少し震わせている。フェリクスも黙り込んだままだ。
 イングリットの身体をおそるおそると抱き締める。彼女の中に、子が眠っている。十月十日を迎えれば、この子は産声を上げてシルヴァンを呼ぶだろう。
 妊娠中でも腹の中の子供が紋章を持っているかどうか調べられると、ハンネマンに言われたことがある。そうやって、シルヴァンは生まれたのだ。世界に祝福されたけれど、兄には生まれたことすら憎らしいことだっただろう。
「……シルヴァン」
 真っ直ぐな声が、シルヴァンの背を押した。
「私は、子供が紋章を持っていようが持っていなかろうが、私はこの子が悪いことをしたら叱るし、良いことをしたら褒めるわ。……それだけよ」
 イングリットはそう言ってシルヴァンの背中を子供をあやすように軽く叩き、フェリクスがシルヴァンの頭を慰める様に撫でる。そうだ、とシルヴァンは思い出す。グレンは紋章を持っておらずフェリクスがフラルダリウスの紋章を受け継いでいたが、二人は傍目から見ても仲の良い兄弟だった。どこかで、どこかで自分もそんなもしもを欲していたのだ。
 シルヴァンは大人になり、そんなもしもの可能性を永遠に殺してしまった。けれど、イングリットがそばにいる。彼女だけは変わらず、シルヴァンを叱り、笑ってくれる。
「……イングリット。腹を、触ってもいいか?」
「ええ、どうぞ」
 布の上から彼女の腹に触れた。まだ膨らんではおらず常と変わらぬようにしか見えないが、ここにシルヴァンとイングリットの子供がいる。シルヴァンは、なあ、と声を振り絞った。
「お前の母親はおっかないけど、良い女だ。父親はどうなんだろうな……情けない話だが、愛情ってやつが怖くて逃げてばかりだった。だから、良い父親が出来るとは思ってない。でも、抱きしめることだけは出来る」
 愛しい人の温もりがどれほどの強さをくれるのかを、シルヴァンは知った。暖かな女は微笑み、この子もあなたが良い男だといつか知るわ、と囁くものだからシルヴァンは瞼を閉じる。
 マイクランの背を見つめる幼い頃のシルヴァンが、ようやく彼に手を伸ばすために歩き出したような気がした。