さかなの寝床はここにある

「ただいま~」
 ブーツの紐を解きながらそう口にすると、キッチンからしていた水音が止んだと同時に玄関へ向かう足音が聞こえてきた。たったそれだけで翔は自分の口角が緩んだのを自覚し、急いでマフラーを巻き直して口を隠す。
 恋人が料理をしている手を止めて自分の元へおかえりを言いに来るという事実だけで、こんなにも浮かれてしまっているのをまだレンには気付かれたくなかった。ただでさえおチビちゃんなどと呼ばれて弟扱いが抜け切れていない様に見えるのだから、レンの前では格好いい恋人でありたいのだ。無論こんな風に考えていること自体が子供らしい事も分かっているが、それでも緩んだ頬をおもいきり見せるよりはこちらの方がまだ良いだろう。
 口元が完全に隠れたのを確認してからブーツを脱いで玄関に上がったところで、エプロンを着用している恋人と視線が合った。
「おかえり、おチビちゃん」
「た、ただいま」
「ふふ、二回も言ってくれるのかい? ありがとう」
 夕方に仕事が終わるので夕食を作ると昨日のうちに聞いていたが、それでもこうしてエプロンをつけて、玄関まで出迎えてただいまにおかえりを返してくれるレンを見ると翔の体温はどんどんと上がっていく。きっと手は真っ赤になっているだろう、そう思うと今が冬で良かったと思わざるを得ない。レンに見られたくない所を防寒着が隠してくれているからだ。
 そんな煩悩だらけな翔のことなんてつゆ知らずな恋人は、首元に乱雑に巻かれたマフラーを見て不思議そうな顔をした。
「急いで帰ってきたんだね。おチビにしては珍しく雑な巻き方をしているじゃないか」
 そう尋ねられて翔は言葉に詰まる。それこそ自分の浮かれた顔を隠すために先ほど急いで巻き直したなんて白状出来ず、翔は苦し紛れに「だってよ!」と声を上げた。
「腹減ってたんだよな! ほら、今日の収録がさ結構大変で」
 誤魔化すように口走ったが、実際忙しかったのは事実だ。クイズと身体を動かすゲームを繰り返して得点を競う番組で、あまり慣れないメンバーでのそのようなバラエティ番組収録はどうしても気を使う。けれど、雑な巻き方にした理由を口にすることは出来なかったから、本音半分の理由を言えばレンはなるほどと頷いていた。
「ああ、今日の撮影は例のバラエティ番組だったね。あの番組、結構ハードなんだろう? イッキが言っていたよ」
 翔は映画の宣伝を兼ねて初めて出演したが、半年ほど前に同じくドラマの宣伝で撮影を済ませた音也から話を聞いていたらしく、それはお腹が空くよねと一人で納得しているレンを見たら、今日の収録に内心感謝しつつ翔はマフラーと手袋を外していく。コートを脱ぎ終えてハンガーに掛けにいこうとしたところで、レンが翔のコートを奪ってしまった――とは言っても、丁寧に抱き締めて「オレが掛けておくから、おチビは手を洗ってきなよ」と付け足されては仕方があるまい。悪ぃ、と礼を述べて洗面台へと歩いて行こうとしたが、レンに服を掴まれて一度足を止める。
「レン? どうした?」
 そのレンの行動に振り返ろうとしたが、それよりも早く彼は翔の耳元に唇を持ってきており、あのね、と囁くだけでレンの息が間近で聞こえてきて翔の背筋がぞくりと震える。レンはそんな翔の欲など知らぬまま、彼にしては少し早口で翔にお願いを始める。
「手を洗ってきたら、いちばんにオレの所に来てくれるかい? ……本当は帰ってきたらおチビをハグしたかったんだけど、エプロンが水で少し濡れていてね。手を洗っている間に脱いでおくからさ」
 そう言い終えると台所へとそそくさと逃げていく姿を見送ることしか出来ず、翔はしばらく立ち止まっていた後にへたりとその場に座り込んだ。とんでもない言い逃げをされたのだと理解して、翔はしばらく頭を抱える。けれど、今すべきはそれどころじゃないと自分に言い聞かせて急いで手洗いとうがいをするために立ち上がった。
 ――普段は気障ったらしい台詞を呼吸するように口にするレンだが、本来は甘えたがりなのだ。付き合うに至るまでも、それこそ付き合ってからはじめて身体を繋げるまで、レンは翔に対して線を引いていた。女性とは幾度となく関係を持っていたが、恋人という関係は今までしたことがなかったと吐露したのを察するにレンもどう振る舞えば良いか思い悩んでいたのだろう。表面上は学生時代と変わらず格好つけているように見えたが、実際は深く踏み込まれて本当の自分を見て失望されたくないというレンなりの自分を守る術だったのだ。
 けれど、身体と交えて、境界などわからなくなるほどお互いが一つになった時を境にレンは少しずつこんなふうに翔に対してさみしいやそばにいてほしいを表現してくれるようになった。セックスをする時はそれが顕著に現れる。翔と抱き合っているとき、柔らかな顔で目を細めて「しょう」と舌足らずに名前を呼ぶあの瞬間を思い出し、翔は「あ〜!」と声を上げて煩悩を振り切った。
 その大声がどうやら聞こえたらしく「おチビ?」と心配そうに呼ばれたので、翔は「何でもない!」と返事をして急いで手を洗う。指一本一本を丁寧にハンドソープまみれにしながら、レンと抱き合うだけだ、ハグなのだ、と己に言い聞かせないといけないぐらい、翔は恋人との二人暮らしに浮かれたひとりの男だった。

 ◇

 間取りは4LDKでコンシェルジュは二十四時間常駐。プールやジムも通い放題で、敷地内には公園やスーパーがある。
 そんな自分たちが芸能人という特殊な職業であったとしてもいささか欲張りすぎではないかというタワーマンションに住むことになったのは、良くも悪くもシャイニング事務所の社長たるシャイニング早乙女と神宮寺家が結託したからだと言うしかなかった。
 シャイニング早乙女の事業は多岐に亘り、取引先も多い。そのお取り引き相手の中でも懇意にしている相手として神宮寺と聖川の名前が並ぶのは致し方ない話だろう。ST☆RISHのメンバーとして出自は関係がないと思っているが、それとこれとは話が別となることが多い。
 二人で暮らしたいと言ったとき、早乙女は怪訝そうな顔をしたが「その売り方もアリといえばアリでしょう!」と頷かれた。案外すんなりといったものだと思ったのも束の間、部屋はどうするのかと聞かれて翔は「都内のどっかのマンションで……」と素直に答えたのだが、どうにもそれがいけなかったようだ。
「ミスター神宮寺。このことはご家族には?」
「……まだ、だけど。兄貴に言うのは最後でいいだろ?」
 少し不満げにしているレンとは裏腹に早乙女は「ノンノン! 真っ先に言うべき相手デース!」と声を張り上げた。レンは早乙女と睨み合いしばらく黙り込んでいたが、最後にはため息をついて携帯を片手に部屋を出ていく。実兄に電話をしに行ったのだろうが、あの様子だと今日は拗ねたまま過ごすのだろう。宥める翔の気持ちなんて社長は気にすることはないのだろうが。
 肩を落としてどうするかなと考えていたところで、先ほどよりももっと不機嫌な顔をしていたレンが再度戻ってきて携帯をそのまま早乙女に渡す。「レン?」名前を呼ぶと彼は少し動きを止めた後に翔の隣に帰ってくる。顔を強張らせている様に見えて、翔はおもわずレンの背に手を置いた。
「……おチビちゃん?」
「たまには頼りにしろよ! ……お前より年下だし、背も小せえから、頼りにならねぇかもしんねえけど」
 でも、お前の隣にいるって決めたんだからな。
 言葉にはしなかったけれど、レンにはそれだけで伝わったようで首を縦に振った。そのまま二人して並んでいたら「話がま〜とまりました!」と早乙女が目前へ飛び出してくる。どこか緊張しているレンの手を握る。
 翔はレンと一緒に飛び出してくるであろう難題をどんなものでも受け止めようと決めて、ここにやってきたのだ。
 固唾を呑んで発される言葉を待っていた翔だが、話を聞き進めていけばいくほど肩の力が抜けていく。けれどレンの美しい眉はどんどんとつり上がっていくので、翔は途中からそちらの方に気を取られてしまっていた。翔としては言われたことに対して、まあそりゃそうだろうなあ、と納得する部分もあったし、二人でこれから暮らすことを許容して貰えただけでも万々歳だ。
 早乙女と神宮寺が出した結論はたったひとつだった。
 二人で暮らすのは構わない、けれど二人の住む部屋はシャイニング事務所と神宮寺が候補を出すのでその中から選べ。
 翔としてはそんなのでいいのかと思うところはあったが、レンはしばらくは拗ねたまま「オレのことを子供と思って」「オレもおチビも社会人だし、住む家くらい決められる」と時々思い出しては独り言を繰り返していたが、ここ最近は落ち着いてきた様だった。
 駆け出しの時を思えば、今の状況は恵まれている。ひどい時は分刻みのスケジュールが組まれていることすらある売れっ子アイドルの立場に自分たちはなっていた。個人としても、グループとしても活動は活発だ。その分どうしても出てくるのは、スキャンダルという単語だ。翔も何度か記者に付け狙われた事があった。それはマンションからずっと翔に付き纏うが、レンのマンションへ遊びに行ったのだと分かるとその場からいなくなる。記者が消えたとレンに報告すると、レンは昼食を作りながら「有名税ってやつだね」と肩をすくめながら翔に話をしたことがやけに頭の中に残っていた。
「お目当てはあの来栖翔の熱愛報道なんだろうけどね。そういう記事にして数字を出せるのは意外性のある人物だ。ST☆RISHの中だとそうだね……それこそ、おチビやイッキなんて狙い目だろう? それを狙っているのに実態はただグループメンバーと遊びに行くだけだからね、少ししたら飽きるよ。……勿論、オレ達がただのお友達関係ですと言った会話と行動しか見せてあげないのもあるけれど」
 レンの言うとおり、しばらくすれば週刊雑誌の記者はいつの間にか姿を見せなくなり、それから数週間後には他事務所の若手俳優の熱愛報道が一時期ニュースを独占していた。レンはそのニュースに何も言わなかったけれど、ぎゅっと翔の手を握っていたのを思い出す。
 両者が候補に出してきたマンションはどこもセキュリティがしっかりとしている。それどころか要人でも住んでるのかここには、と言ったほどに強靱に守られているのだ。見知らぬ人物がうろうろとするだけで警備員が即座に駆けつけ、聞き取りを行う姿を幾度も確認したし、その内の一人も何度か見たことがある記者だった。
 レンは不満げにしているし、甘やかされていると怒るけれど、この部屋はきっと神宮寺誠一郎なりのレンへの愛なのだ。
 勿論この先がどうなるかは分からない。自分たちの関係性が全ての人間に許されるとは考えていないが、それでも翔は心ない言葉が投げかけられたとしてもレンの手を離さずにいたいのだ。自分たちの月収と、マンションの家賃を何度も確認して、レンと二人で決めたマンションはとんでもない高級マンションで今でもこんな所に住んでいる自分はやっぱり場違いであるのは否めない。それでも自宅に帰るとレンが笑って出迎えてくれるのならば間違えていないと早乙女相手に胸を張って答えられると翔は自分を信じられた。
 
「なあ、レン」
「どうしたんだい、おチビ」
 ブログの更新を終えてレンに話しかければ、この機会を待っていたと言わんばかりに後ろから抱きつかれる。夕食と入浴を済ませ寝る前のブログの更新を終えると、レンがこうやって後ろに座ったまま抱き締めるようになったのはいつからだったか。人のぬくもりが心地よいから、おチビの身体がちょうどいいからだよなんて言い訳を並べてから「駄目かい?」と不安がる顔を見てしまっては駄目だなんて言えるわけがない。
 翔の肩に顎を置いてすりすりと頬にくっついてくる骨の抜けたレンの顎を指でさすると「ぁ……」と声を上げ、翔を恨みがましく見ながら「おチビのスケベ」とぼやくのでどっちがだと翔は息を吐く。
「スケベの筆頭みたいなやつに言われたくねえっつうの」
「おや、ひどいことを言うね。あーあ、純真無垢の可愛らしいおチビちゃんはどこに行ったのかな?」
「……今の俺、嫌か?」
 おもわず尋ねると、レンはぱちと瞬きを繰り返して、まさかと笑いながら翔の耳たぶを食む。耳の輪郭をレンの熱を帯びた舌がなぞっていく感覚に、ふとベッドの上であついと言いながら翔を求めるこの男の姿を思い出し、翔の背筋が震える。散々舌でなぶり遊ばれ、最後にレンは翔のピアスに口づけた。
「……だいすきだよ」
 しってる、とどうにか声を振り絞り、翔はレンの腕に仕返しのようにキスを幾度も落としていく。レンは幸せそうに声を零しつつも「それで、何か用事だったんだろう?」と翔に尋ねた。
 そうだった、と翔はパソコンを操作してブックマークの一覧から目的のページを表示させる。レンは翔を抱き締めながら上から下まで画面を隅々まで確認して、それからにやりと不敵な笑みを浮かべた。
「欲しいのかい? おチビにしては大胆不敵なお値段を出してくるじゃないか! いいよ、買おうか」
 マウスを操作しようとするレンの手首を掴んで「待てって!」と翔は慌てて制止した。
「おいこら、購入画面に進もうとすんな! 買うとしても俺が買う! 基本使うの俺になるだろうし!」
 けれどレンは止められた事と、翔の言葉に不服なのか「あれ?」と少しわざとらしく口元に弧を描く。
「大きな買い物をする時は折半、っておチビが言ったんだよね? それにプロジェクターならオレも少し気になっていたよ」
 レンが家庭用のプロジェクターを指さし、いいんじゃない、と翔の相談を迷いなく肯定してくるものだから購入ボタンに自分の指が動きそうになったが、翔は必死に堪えて「ちゃんと考えようぜ」と恋人に声を掛けた。
 ――早乙女と神宮寺という二大巨頭が出した条件は間違っていない。それだけはまだ人生経験の浅い翔でも頷ける。けれどこの建物が高級とんでもマンションであることは決して変えられない事実だ。暮らし始めてから今まで翔は二人暮らしだとしても多すぎる部屋の使い道に頭を悩ませていた。
 部屋はなんと四つもあり更にリビングとキッチンは別となると、最初はワクワクしていたが段々と思考が雑になってしまった自覚はある。一つは翔とレンの寝室に、もう一つはST☆RISHの皆がいつ遊びに来てもいいようにと客室を作ろうとここまでは良かった。けれど、残り二部屋をどうするかとなるとどうにも翔とレンはいまいち噛み合わず、最終的にお互いのコレクション兼クローゼット部屋と化してしまったのだ。
 この点に関してはいつまでも翔の中ではしっくりと来ておらず、何度かどうするべきかと脳内でシミュレーションをしてみたがいい案は出てこなかった。どうすっかな、と隅っこで課題として置いていたのだが、テレビで家庭用プロジェクターが特集されていたのを偶然楽屋で見たのが始まりだった。
 今更言うのも可笑しな話だが、翔の憧れたる日向龍也とはシャイニング事務所が誇るトップアイドルだ。今はアイドル活動より事務所の管理職兼早乙女学園教師として後続アイドルの育成に育んでいるが、それでも日向龍也のグッズは月一で発表されるし、彼が主演したケン王のグッズもここ最近のリバイバルブームからかどんどんと新作が出ている。三ヶ月ほど前に出たリマスター版ケン王の円盤は予約開始日に予約し、発売日当日に手に取った。レンにこのシーンのどこが最高であるかというのをテレビを前に語りながら芽生え始めていた種が、その家庭用プロジェクターを知った際に一気に花開いたのだ。
「要するに大きな画面でリューヤさんが見たいんだろ、おチビは」
 レンの指摘に否定など出来るはずも無く「まあ、その……見てえじゃん!」と誤魔化すように叫べば、レンは肩を震わせ笑いを堪えている。レンと所謂お付き合いを始めたのはここ数年だが、出会ってからの月日はもうすぐ八年目となる。当然翔の趣味嗜好、そして龍也への憧れに関してレンはちゃんと分かった上で翔を受け止めてくれているが、こういう時少し気まずさを覚えてしまう。
 それに見たいものは龍也だけではない。お互いの出演する番組はすべて自動で録画するようになっている我が家のプレイヤーの頑張りに報いたいのだ。理由がミーハー染みた事を言っている自覚はあったが、様々な理由を述べているとレンはしばらく黙って聞いていた後に翔から離れて、隣に座り直した。
「買うのは決定だとして、おチビちゃんはどこに置くかもオレと考えたかったんだろう?」
 レンは翔の考えはお見通しのようで、プロジェクターの公式サイトに行き、サンプルの動画を見ながら提案する。
「寝室にプロジェクターを置いたらどうだい? 説明を見ていると、色々な写真も映せるんだろう? 携帯で撮った写真が大きな画面で見られるというのはオレは惹かれるな」
 翔も最初は同じ事を考えたが、個人的にしっくりとはせず「そうなんだけどな」とレンの意見に賛同する所はあるのを示した上で、腕を組みながら恋人の顔を見上げた。
「寝室だと落ち着かなくね? このプロジェクターで壁とかに映すんだろ? 寝るぞってなった時に色々画面に映っててもな……」
「そうかな、電源を切ったらいいと思うけれど。まあでも、これを機会に部屋の整理に手を出すのもありか。神宮寺の家にもね、シアタールームがあったんだよ。プロジェクターは使ってなかったけれど、そこでジョージお勧めの映画を見たり、それから……」
 そこまで言いかけて、レンはふっと息を吐いた。
「マミーの主演の映画をね、見たんだ」
 何を口にすればこの場合正しいのかなんて今の翔には分からなかったが、結局「今度、俺にも見せてくれよ」とレンに言えば、彼はふふと微笑みを零して頷いた。それからソファから起き上がり、それからキッチンへと向かう。
 キッチンの壁にはホワイトボードが設置してあり、お互いのスケジュール表が貼り付けてある。レンはおそらくそれを見に行ったのだろう。翔もレンの後に続くと案の定スケジュール表を確認したらしい恋人が「再来週の水曜日、午後かな」と指差す。帰宅する時間はばらばらになるだろうが、このまま何も予定が入らなければそこがお互いオフが重なる日になるだろう。このまま素直にネットで購入してもいいが、実際現物が見たいというのはレンにもあるのだと推測し、翔はよしと腰に手を置いて頷いた。
 再来週にプロジェクターを購入するとして、それまでにどの部屋を自分たちのシアタールームにするか会議し、整理整頓を行って、部屋を改装していかねばならない。長いようで短い期間だ、のんびりとしておられず候補の部屋を一室ずつ確認しに行こうとレンを急かせば、あおい瞳を瞬かせて「おチビといると本当忙しいな……」と文句を言うが、頬は緩んでいる。レンはきっとどこか遠い場所に、説得力というやつを忘れてきたのだ。

 ◇

「翔ちゃ~ん! 久しぶりですね! 最近会えなくて寂しかったんですっ、ぎゅ~ってしてもいいですか?」
 そうは言うものの、すでに那月の腕は広げられていた。無意識にしてしまったのだろう、那月自身困ったような顔をしてこちらを見ていた。そんな表情を見せられては無碍にはできず、翔は覚悟を決めて「いいぜ!」と腰に手を置いて仁王立ちをして頷けば、そんな翔に那月は嬉しそうに頬を赤らめておもいきり翔の身体を抱き締める。同時に骨がきしむ音が聞こえた気がして、口からは「痛え!」と叫び声が出ていた。
 すっかりと見慣れた光景だからか、もう一人の番組共演者である藍はそんなふたりを気にもとめずに台本を読み終えると「ショウ、最近レンは忙しいの?」と尋ねる。
 那月の腕から解放されたものの、唐突に出てきた恋人の名前に翔は目をぱちぱちとさせる。その翔の行動に藍は目を細めた後に呆れた様にため息をついたので、那月共々ソファに並んで座って藍の質問を掘り下げることにした。
「藍ちゃん、レンくんがどうかしたんですか? 僕、この前一緒に料理番組に出ましたけど元気そうに見えたけど」
「お前とレンをオファーした人、どんだけ勇気あんだよ……。レンなら元気だぜ? 昨日も夜に激辛パスタ食べてたし」
 藍は二人の話を聞いて、どうでもいいことだけど、と前置きをしてから話し始める。
「レン、最近ラブリルにログインしてる時間が減ったから。毎日ログインして何かしらのクエストはこなすのに、ここ一週間はデイリーだけ終えたらすぐログアウトするんだ。体調を崩したのかと思ってね。ボクは最近レンとの仕事はなかったから、一緒に住んでるショウに聞いただけ」
「……藍ちゃん、レンくんのこと心配してるんですね」
 勢いよく藍を抱き締めている那月に、顔色一つ変えず、むしろ不満げに藍は座ったまま那月を見上げた。
「ナツキはボクの話をどうしてそう変換出来るの? 心配なんてしてないから」
 このままだとディスカッションをし続けるだろうと判断した翔は、二人を宥めながら藍の疑問に対して少し考えることにした。
 レンと藍が熱心にしているオンラインゲームことラブリルファンタジーについて、翔は詳しいことは分からないがレンがそのゲームを大変気に入っていることは事実だ。去年にラブリルファンタジーのEXPOがあるのだと大はしゃぎして参加チケットの抽選に申し込んでいたことも知っているし、藍と一緒に大いに楽しみ、その記念グッズを大量購入したのは記憶に新しい。
 そんなレンがラブリルファンタジーにログインする時間が減ったと藍は言う。レンは夜型で翔が眠ってしまった後も早朝まで起きていることは多々とある。翔の眠っている時間帯にラブリルファンタジーをしているのだと聴いているが、それすら滞っているということは――翔は「あ~……」と顔を帽子で隠した。
 レンがゲームをする時間も惜しんで片付けをしているのだと考えて、翔も気合いを入れ直さざるを得ない。レンは自分も気になっていると言っていたが、翔の手前で本音を言わなかったのではと密かに心配していたのだ。けれど、そうではないのだと知ると俄然やる気が増した。よし、と頷いたところで「翔ちゃん?」と那月の呼びかけにおもわず身体を揺らす。
 那月の腕の中で顔色をころころと変えるのを、二人には見られていたのだと考えると一気に身体が熱くなった。那月の腕から離れて怪訝そうな顔をしている藍に、翔は「あの、あれだ」としどろもどろで答えざるを得ない。藍も二人の関係性は知っているが、それでも何となくちょっと惚気のようになってしまうことを話すのに、翔にはまだ時間が必要だった。
「その、今、部屋片付けてんだよ。俺も暇な時間あったらやってるけど。レンも多分、それでだ」
「翔ちゃんたち、お引っ越したの五ヶ月前でしたよね。あれ、でも僕、お引っ越ししてから何回も遊びに行ったけど、綺麗なお部屋だったのに……お片付け、ですか?」
 那月がまっすぐにこちらを見てくるので、益々どう言うべきか分からず翔は唸った。目の前の藍はそんな翔の様子を見て「はっきり言いなよ」と急かすので、翔は深呼吸をしてからまくし立てる。
「部屋にプロジェクター置こうと思ってんだよ! だから、片付けでレンもゲームしてる時間減らしてんだと思う!」
「ショウ、仕事前なのにそんなに叫んでどうするの。うるさい」
 冷静な指摘のせいでますます恥ずかしくなり照れを隠すために水を飲む翔に、隣の那月は目を輝かせて「仲良しさんですね!」と微笑んだ。
 けれども翔が叫んだことによって藍はなるほどねと納得したようで、それ以上レンの話を追求せず、鞄からファイルを取り出して別の案件にかかりだした。素直なやつと内心苦笑いしていたところで、藍が「……わざわざ別部屋に作る意味はあるの?」と翔の顔をまっすぐに見る。
 ――寝室にプロジェクターを置いたらどうだい?
 レンも同じ事を言ったが、翔はそれに対して落ち着かないからと突っぱねた。我ながら説得力が弱くレンも不思議そうにしていたけれど、それでも翔の意見を通してくれたレンには感謝している。素直に本音を言えば良かったのかも知れないが、けれど。翔は息を吐く。
(……だって、こればかりはなあ)
 少なくともこれは二人よりも先にレンに伝えるべきだ。そう結論づけた翔は質問には答えず「また遊びに来てくれよ」と二人に言えば、やはり訝しげにしているがそれでも藍は何も言わなかった。隣の那月は「クッキー焼いていきますねぇ」と頷くので、翔は必死に那月の手作りお菓子ルートをどう回避するかについて頭を動かした。

 ◇

「ああ、いいね」
 レンの満足そうな声に翔も頷く。遮光カーテンを閉め、部屋の天井に取り付けたプロジェクターを起動させると、壁一面に大きく時刻を映し出す。劇場と言うには小さいけれど、自分たちだけの小さな映画館は想像していたよりずっと翔の心を虜にしてしまった。レンがリモコンを操作して、画面を切り替えていく。森林に砂漠、外国の海に星が散らばる夜の空。そんな世界を見ながら、翔はレンの手を引っ張って、真ん中に設置したソファーに二人で座る。
「すっげ……本当に映画館みてえ。ソファはでかくて柔らかいし」
「このソファ、お気に入りのインテリアショップで見つけたんだ。おチビちゃんも気に入ってくれたなら良かったよ」
 シアタールームを作ると言ったものの、翔の中では定義が曖昧だった。むしろレンの方が真剣だったようで、必要なものをピックアップしてそれらはもう事前購入をしていると聞いた時は驚いたものだ。後で購入したもののレシートや明細を出すように言っているが素直に出す筈もないので色々と手をこまねくだろう。それでも今はそんな細かいことは言わずに、お互いこの二人だけの空間に息を飲み込んでいた。
 改装したのは衣装部屋にしていた部屋だ。お互い服が多くて雑多に大量の服を突っ込んでおいた部屋で、ここを掃除するだけではなく、服を仕舞うか捨ててしまうかどうかを何度も議論した結果、クローゼットやタンスを追加購入することで解決させた。出費がデカすぎるなとこの辺りで翔は遠い目をしていたが、反対にレンはご満悦だった。曰く、せっかくおチビが選んでくれた服を捨てるのはもったいないと言うもので、自分に対して甘すぎやしないかと戸惑うものの満更ではないのも事実だ。恋人に甘いのはお互い様なのだろう。
 壁に浮かぶ星空を見ながら、ソファでじっとしていたら隣でレンが何かを確認していた。
「レン?」
「あった、これだ」
 へ、と声を上げる暇も無く背もたれが後ろへと突然落ちる。当然翔の身体もそのまま仰向けになって、天井を見つめる形になった。シーリングライトと一体になったプロジェクターを見上げていると、視界にオレンジが入り込む。隣でソファの上に座っているレンは「寝心地はどう?」と言いながら、翔をのぞき込んでいた。
「これはソファベッドでね。寝転びながら見られるんだよ」
「いや、なら口で言え! 実践すな!」
「おチビはああ言ったけど、やっぱり折角の家庭用プロジェクターなんだし、こうやってゆったりとするのもありじゃないかと思ってね。嫌だったかな?」
 翔の抗議を気にもとめず、レンはさらりと口にするけれど目はすこしおびえているようにも見えて、翔は右手を伸ばしてレンの頬を撫でる。「……悪くねえよ」身体は大きいのに、レンは時々こんな風に子供のように翔を見る。ぬくもりを求めて女性と身体を何度重ねたって、レンの心はからからに乾いていたのだろう。翔とこんな関係になってからも、レンは時々縋るようにこちらを見たかと思えば、恐る恐ると離れようとする。
 でも、それを許す翔ではない。右手を離し、そのまま左手も上げて思い切りレンの肩を掴むとそのまま自分の方へと引き寄せた。油断をしていたのだろう、声を上げる間もなくレンの身体は翔の上に覆い被さる形となった。突如引っ張られて様子を窺っているようでただ黙ったまま、レンは翔の首筋に顔を埋める。レンの吐息が首に当たる度に、翔の身体はぴくりと反応しているが何度か息を吐くとレンの腰に手を伸ばして、ぴたりとくっつくようにさせると、恋人のいっそ腹が立つほど長い足はどうすればいいのか分からないのか尾鰭のようにゆらゆらと動いていた。
「……一緒に寝る部屋で見るのは、レンだけがいいって思った!」
「え?」
 レンにしては珍しく間の抜けた声を発して、顔を上げる。翔はそんなレンをもっと強く抱き締めたまま、自分の顔の横にレンの顔が見られるように全力で引っ張り上げた。わ、と声を上げながらされるがままの恋人がたまらなくかわいいと思うのは仕方ない話だ。目線の高さが同じになったことにより、まじまじとレンの顔を見つめると照れくさそうに目を細めるので、翔は逃がさないと言わんばかりにレンの鼻に自分の鼻をくっつけた。くすぐったがりの恋人はそれだけで肩を震わせる。
 翔はその様子を間近で見つめながら、だってな、とレンの耳たぶを指先で引っ掻きながらひとつひとつ我ながら馬鹿みたいな理由を零すことにした。
「俺もそりゃ最初はプロジェクターが寝室にあってもいいなと思ったけどさ。でもさ、よく考えたらレンのこと見る時間が減っちまう気がして。寝るときに見るのは景色よりもレンがいい、お前のことをずっと見ていたいよ」
 プロジェクターに映し出される映像と高音質のスピーカーのおかげで、いつも見ているテレビの画面よりも迫力があるのだろう。それはとても魅力的で、これからの生活はもっと楽しくなるに違いないという確信がある。
 でも、それ以上に隣にはレンがいる。レンがいるだけで、翔の日々は以前よりももっと彩りが増えた。最初に出会ったとき、捻くれもので面倒くさくてそして飛び抜けて華美な存在であったレンは、今、翔の隣でどんどんと顔を真っ赤にして子供みたいに呆けている。その事実が翔の胸を焦がしていく。
「レン」
「っ、待って」
 視界の端で壁一面に広がる星の海、翔とレンはソファの上で泳いでいた。レンはその海の中から逃げようとするけれど、本気では無いのだ。レンがその気になれば、幾ら翔でも簡単に突き飛ばすことが出来る。
(レンの待っては、もっと、なんだよな)
 寝転んでいる中、ばたばたと藻掻いているからか服が捲り上がってしまったレンに「隙あり!」と翔は見えている脇腹を右手でくすぐると、途端にレンの笑い声が室内に響いた。翔がその様子にもっとおおきな声で笑えば、レンが不機嫌な顔をしている。それが愛おしくて、翔はレンの尖った唇に口づけを落とす。
「一秒でも目に焼き付けてたいんだよ、レンのこと」
 ――こればっかりはきっと悲しい顔するから言わねえけど。最後に見る顔も、思い出す顔も、レンがいいから。
 翔の言葉に、レンは動きを止める。
 レンの尾鰭はぱたりと動くのをやめ、星空の中で泳いでいた魚はまた翔の腕の中へと戻ってきた。
「オレも、翔だけを見ているよ」
 唇が塞がれ、レンの舌が翔の上唇をなぞる。今からすることなんて、たった一つだけだ。レンがキスをしながら翔のパーカーを脱がせ始めるので、翔はソファの隅っこに置かれたリモコンに手を伸ばす。きっと、星の下で翔を求めるレンも綺麗だろう。それでも、やっぱり、今はまだレンだけしか視界に入れたくない。
 片手でプロジェクターのリモコンをどうにか掴み、電源ボタンを押す。ぷつんと切れた画面を気にもとめず、翔はレンのベルトに手を掛ける。レンの脚がようやく居場所を見つけたように、翔の脚に絡まっていた。

「へえ、迫力があるね」
 湯上がりでバスローブに身を包んだままのレンに、翔はペットボトルを手渡す。程よく冷えた水は喉を潤してくれるだろう。先ほどまでの情事のことなんて忘れたような顔をしているけれど、それでも少し掠れた喉が事実として翔の耳に残る。
 二人してソファに座って、お試しとして再生したケン王の映像は翔が幾つになっても心に炎を焦がすのだ。それをこんな大迫力で見せられたら溜まらない。おもわず「いいよな! やっぱ!」と同意を求めると、レンは笑いながら頷いてくれた。
 これからケン王とマジンダーをこの大画面で一から見直していくのもいいだろう。隣でレンが苦笑しつつも付き合ってくれる未来を想像し、我ながら良い買い物をしたと自信がある。
「こうやってさ、これからもずっと二人で楽しんでいこうな!」
 ちょっと早口だっただろうか。それでもきっとレンには届いていただろう。
 ――返事をするかのように、レンが翔の旋毛にキスをしたからだ。

2023年7月18日