きみはユートピアで揺蕩う

「フリーナ殿、名前をお借りしたいのだが良いだろうか」
 ヌヴィレットという男――水龍は時折唐突な物言いをするが、それは五百年、そして更に六十年と経っても変わらぬ所だ。フリーナは「なまえ」と大きく口を開けてから、目を細め肩をすくめるとスメールから取り寄せた水をヌヴィレットの前に置く。
 水神の座を降り、こうして人々の中に紛れるようになってから随分と時を重ねた。フリーナという水神の名は薄れていき、舞台役者のフリーナという肩書きが大きくなり、そして今では大袈裟な言い方をするおばあちゃんとフォンテーヌの子供たちの間では親しまれるようになったのはいつの頃だったか。
 フリーナに気を遣ってなのかヌヴィレットはフリーナの住まいに姿を見せることはあまり無く、あったとしても夜に忍んで相談(これは主にフリーナからが多かったが)と現状報告を淡々と終えるとさっさと仕事に戻るいつもと変わらぬものだから、こんな晴れやかな昼間に顔を見せるとは何かあったのだろうかと戸惑ってしまう。
 さて、そのヌヴィレットは何と言っただろうか。名前を貸して欲しいと単刀直入に言う彼にフリーナはしばらく考えたが、結局意図は掴めそうにないため諦めて理由を尋ねる事にした。
「僕の名前をどうする気なんだい?」
「フォンテーヌも以前より広くなり、国外から来る人々が待ち合わせ場所に苦労する事が増えた。その為に新しく目印となる噴水を作る事になった、その噴水の名に君の名を借りたい」
 思ったよりも大規模な名前の借り方にフリーナは飲んでいたミルクティーを吹き出すかと思ったが、それをどうにか我慢して無理やり飲み込むと水も飲まずにこちらを見続けるヌヴィレットに「それは難しいんじゃないかい……?」と眉を顰めた。
 ヌヴィレットは怪訝な顔をして――表情筋があまり動かない為分かりにくいが、これは間違いなくフリーナは何をまた言い出したのだと言う顔だ――何故、と逆に問いかける始末だ。何故も何も、とフリーナはゆっくりと椅子から起き上がり部屋の窓から街の景色を眺める。
 フォンテーヌ廷を歩く人々は活気的で、笑顔に満ちている。勿論裏では悲しい顔も、怒りもあるだろう。それでもこんなにたくさんの人が笑う光景をこの目に焼き付ける事ができて、フリーナはよかったと何度だって思うのだ。
「水神フリーナは人々の危機に対して策も打たず何もしなかった。その事実は決して変わらないものさ。童話がいつまでも語り継がれるように、人々の中の憎しみも怒りも語り継がれるだろう。その名は使用しない方がいい。……僕はもうただのお婆さんだ。ヌヴィレット、君がこうして僕の元へと足を運んでくれるのはとても嬉しい。だけどね、ヌヴィレット。水神フリーナはこのまま過去へと消えるべきなんだ」
 フリーナは随分と歳を取った。昔のように舞台の上を堂々と歩く事はできず、時々立ち上がるのにも腰を痛める。きっとこの先、耳は遠くなるだろう。目も悪くなっていく。
 それがなんて、幸せのだろうか。
 ヌヴィレットの隣まで歩き、だからね、とフリーナは愛おしさを口にする。
「ヌヴィレット、もう少しすれば君の声をうまく聞き取れない日が来る。君の顔を、輪郭を、はっきりと分からなくなる日が来るよ。……それが惜しい、寂しい、そう思える日が僕にも来たんだね」
 ヌヴィレットは黙ったままだったが、突然立ち上がるとフリーナの右手を両手で包み込む。それから、瞳を細めるとフリーナの腰を抱き寄せて突然足を踏み出した。
 主導権はヌヴィレットにあるため、フリーナの身体は彼の思うがままに動くしかない。混乱の最中、ヌヴィレットの動作にふと見覚えがある。フリーナも恐る恐る記憶の中の動きをするとヌヴィレットが微笑みを浮かべた。
「……ワルツかい?」
「ああ。君が踊る姿を見ていたら覚えていた。実際に動いたのは初めてだが、どうだろうか」
 ヌヴィレットの心にいるフリーナはきっと少女の姿で晴れやかに踊っているだろう。現実のフリーナは歳を取り、昔のように軽快なテンポで足を踏み出すのは困難だ。
 こんな自分を覚えていて欲しくないと思う瞬間もある。けれど、ヌヴィレットは覚えているだろう。こんな無様で、愚かで、そして幸福な老婆のことすらも。
 フリーナはヌヴィレットと共に踊りながら「名前は使って欲しくないけれど」と口にしながら、ヌヴィレットに微笑んだ。
「僕の名は、墓に刻んでくれるかい? そして、時折君が足を運んでくれたらそれでいい。それで十分だよ、ヌヴィレット」

 ◇

 新たなフォンテーヌ廷のシンボル、フリーナの笑顔――そんな見出しの新聞記事を確認し、ヌヴィレットはその新聞記事を丁寧に切り取り始めた。
 この新聞を読んだ時の彼女の顔はいくらでも思い浮かぶが、現実はどうだっただろうか。今となっては確かめようもない。そもそも名前を使うなと散々言われた上でのこの行動だ。半泣きで喚き散らしてるような気もするが、呆れた顔をして微笑まれるかもしれない。
 それでも一つだけ絶対に言える事がある。
『なんだい、フリーナの笑顔って! 陳腐で直球過ぎるじゃないか! もっと捻ってくれよ!』
 きっとそう頬を膨らませて言うだろう。少女のような彼女でも、随分と落ち着いた老婦人になってもフリーナの変わらぬ美しさを思い浮かべ、ヌヴィレットは瞳を閉じた。
 執務室に先ほどまで降り続いていた雨は止み始め、光が差し込む。
 水龍、泣かないで。そう最後に微笑んだ彼女の願いを違える事は出来なかった。この名前一つで、ヌヴィレットはいくらでもフリーナに会える。この愛おしい名前ひとつで、ヌヴィレットは何回だってフリーナに会いに行ける。
「フリーナ」
 ヌヴィレットの、いとおしい人だった。