夜をこえてよぼくのスター - 1/4

 十一月一日、十四時。羽風薫はラジオの収録を終えた。
「……明日かあ」
 その呟きに、今日のゲストだった晃牙が怪訝そうな顔でこちらの様子を窺うので、何でもないと首を横に振る。嘘だ。本当はすごく大きくて、でも恥ずかしくて誰にも相談できない悩み事が明日に控えている。けど、それを晃牙に打ち明けるには薫の中にある彼の先輩と言うプライドが邪魔をしていた。

 ◇

 ――後輩二人も学院を卒業し、UNDEADとして芸能界で動き始めてから数年は経った。最初の頃は思い描いた様には行かず悔しい思いもしたが、今ではリリースした曲は毎回オリコンチャート一位を獲得しており、自分でこれを言うのも何だが飛ぶ鳥を落とす勢いだと思っている。勿論驕っていてはいつか痛い目を見るだろうから、油断はせずにこれからも努力を続けていくつもりだ。
 そんなUNDEADだが、楽曲の作成とライブ以外ではUNDEADは四人で何かをするという事はあまりしない。各々好き勝手に動いているのが基本だ。薫は基本話術の高さからかこうしてラジオのパーソナリティーの仕事や、クイズ番組などの司会を任されることが多い。零はドラマの出演が多くて夜の少し過激な番組ではそのまま夜闇の魔王と呼ばれるほどに大概出ているし、晃牙は趣味が極まってか深夜の音楽番組で解説役をして。アドニスはそのキャラが若い層やお年寄りに好評でバラエティー番組に引っ張りだこ。個人でも芸能界で自分のポジションを確実にし始めている。
 しかし、有名になればなるほどスキャンダルや週刊誌というのは自分たちの隙を狙おうとしてくる。
 薫は特にそうだった。『羽風』という名は一見華やかなこの世界でも薫の足枷になる。あの『羽風』の子供が、と影で噂されているのは知っている。
 この件に関しては、学院の卒業前に父に自分の決意を包み隠さず話した時にも言われたことなので覚悟はしていた。お前が生まれた家の名はお前を追い込むほどの力を持つだろう、と。
 だが、裏を返せば自分の背を押す追い風にもなるということなのだ。現に薫が羽風の末息子だと知っただけですり寄ってくる者もいて、それには零はあきれ果てていたけれど。今はそれでいい。いずれ自分たちの力を見せつけてやろう。そう言い聞かせて動き続けてきた結果、『羽風』という名より、『羽風薫』という男がこの世界では知れ渡っている現状だ。
 では『羽風』という名前だけでは面白可笑しく記事を書けないと判断した週刊誌やマスコミは、次に狙ったのは薫の売りでもある『女の子が好き』という一点だった。これに関しては薫がライブや雑誌の記事でも散々と主張しているのもあってか、薫が少しでも打ち上げで女性と話をしようものなら容赦なくすっぱ抜かれた。あのアドニスが「これでは羽風先輩は女性と喋らない様にしないといけないな」と真剣に提案した程にだ。
 煙のない所に火はたたぬとは言うが、これに関しては紛れもなく濡れ衣だった。UNDEADの皆は気にしなくても良いと言ってくれていたのだが、薫とて人の子だ。こんなことになるくらいなら「たんぽぽちゃん」とファンを呼ぶのもやめた方がいいのかもしれない。方向性を変えた方がいいのかな、と零にぽつりと本音を一割ほど混ぜて冗談めいた事を告げたら、彼は呆気に取られてそれを否定した。
 気にしなくていい、薫の事は自分たちが良く知っているとフォローをしても、こればかりはどうしようもなかった。
 ――日に日に落ち込んでいく薫の様子に、最初はマスコミ側にあきれ果てていた零もついに立ち上がったのだ。
「忙しい? そんなことは無いのう、薫くん。だって薫くんは我輩と同棲しておるから、我輩、薫くんが忙しいかどうかなんて把握しておるつもりだったが」
 あれれ~? 可笑しいのう~? 不思議じゃな~?
 特番の音楽番組の生放送で、零は弾丸を打ち込んだ。弾丸と言うよりかはあんなん爆弾だと言ったのは晃牙だったか。
 スポンサー側の意向か、視聴率が取れると思ってか。ちょうどドラマの打ち上げで相手役だった女性と居酒屋の前で偶然出会った瞬間を撮られた薫に、司会を務めている漫才師の「羽風くんは相変わらず色々忙しそうやね」という嫌味たらしいお言葉に対してなぜか零が返したものだ。
 その事実に何か御座いますかねと言わんばかりの堂々とした佇まいに誰も言葉を発せなかったが、動いたのは零の発言を理解して顔を赤らめて立ち上がった薫だった。そんな薫の様子に客席側が騒ぎ出し、晃牙が「羽風先輩!」と声を荒げてしまったのもこの状態に油を注いだと言っても過言ではない。黄色い悲鳴というよりは呻き声や地鳴りのような声にスタジオは包まれた。ただ一人、アドニスだけは顔色を変えず(とは言っても、彼も内心慌ててはいただろうが)、司会の女性アナウンサーに「もうそろそろ俺たちはステージに移動しなくてはならない時間だと思うのだが」と尋ねた事により、その場は無理矢理丸め込んだのだ。
 よりにもよって新曲は零と薫がセンターで、女性一人を取り合う男の心境を荒々しく歌うものだった。スタンドマイクを女性と見立てて一本のスタンドマイクに手を置き、指の腹で輪郭をなぞるその仕草は普段ならばファンの声が飛び交っている。
 しかし、今日は違った。
 自分たちが顔を近付けるたびに、倒れる人もいれば目を背ける者もいる。何だったらペンライトを真っ二つにしている人もいて、薫は若干震えながらもいつも通りのパフォーマンスを終える事が出来た。熱狂に包まれる中、駆け足で四人はステージを降りて顔を青ざめているマネージャーの元へと向かった。
『次はKnightsです! 凛月さん、先ほどのUNDEADのパフォーマンスは』
『コーギーのギターソロ、嫌いじゃないよ? えっ、兄……? 俺、一人っ子だから……』
 本来ならばここで零と凛月の兄弟の掛け合いを入れる手筈だったが、番組側はそれを無しにした様だ。凛月も零と会話をせずに済んだからなのか普段よりも溌剌としており、この場でその事を嘆いているのは零くらいなものだ。そんな凛月といつも通りのレオの挨拶をBGMにマネージャーの怒りが飛んだ。
「零くん! どうしてくれるんですかぁ!」
 二枚看板が芸能界に出てからずっと支えてくれているマネージャーの酒井も流石に怒髪天の様子だ。しかし、彼は普段が弄られキャラなせいか怒鳴ってもあまり迫力がなく、涙目なので零に対してブレーキの役目にはならない。なるのは事務所の社長ぐらいだが、ここにはいないのだから仕方があるまい。零はけろっとした顔で何か可笑しなことはあったかのと首を傾げる始末だった。
 薫はそんな零に耳をおもいきり引っ張る。耳朶が伸びる様子にやっとのことで零が慌てふためくが、指先も頬もなんなら頭も真っ赤な薫には効果は無かった。
「なんであんなこと言うの! 生放送だよ!」
「だからこそ、じゃろ。嬢ちゃん達には今後は同居しているのを我輩が大げさにしたと言って誤魔化されてもらおう。薫くんがスキャンダルをされても仕方のない女癖の悪い男だ、と周りが言うのならば我輩とてそうじゃ。おぬしの事を誑かしている吸血鬼で同居まで追い込んだとでも周りに言わせてやれば良い」
 零のブラッドムーンのような瞳が細くなっていく事に、薫は息を飲み込んだ。想像していたよりも深い怒りの様子とそこまで自分を心配してくれている事実に薫は二の句が継げない。そんな二人のやりとりに口を挟んだのは、冷静になってきた晃牙だった。
「……まあ、いいんじゃね~か。言っちまったもんは言っちまったもんだしよ~。同居してるのは本当なんだし」
「そうだな。ファンへの影響があるからと黙っているにしても限界があると俺も思う。これは良い機会を得たと考えても良いだろう」
 晃牙の意見に賛同するようにアドニスも続けた。薫は二人の表情を見つめる。生暖かな瞳が告げている。
 ――この機会にくっつけよ、と。

 その後は何事もなかったかのように番組の終わりにはカメラに向かって笑顔を向けて。番組が終了したらすぐにプロデューサーに迷惑をかけた事への謝罪に行くと、相手はむしろ鼻息を荒げて「視聴率が上がったから問題ない!」と言うので、あんまりの事に薫は呆れと言う感情しか湧きあがらなかった。零は謝らなくてもよいと言ったのにと薫にぶつぶつと文句を言うのを無視して、楽屋で待っている後輩二人を連れてスタジオの地下の駐車場へと向かった。購入したのは可愛らしいフォルムの灰色の軽自動車だが、大人の男四人が乗っても存外広さのある車内で薫は気に入っている。そんなお気に入りの車のドアを薫はわざとらしく音を立てて開けた。
 薫の隣に当たる助手席に乗るのは零の特権だが、今回ばかりは後部座席に乗っている二人が代わってくれても良いんじゃないだろうかと恨みがましく睨む。アドニスはともかく、晃牙は顔をそらして「ハッ」と鼻で笑っていた。零は先程自販機で購入したトマトジュースをずずと音を立てて飲みながら、薫に「出さんのかえ?」と聞いてくるから腹が立つ。
「車を出す前に! 朔間さん! 本当に反省してる!? あんな発言しておいてたんぽぽちゃん達が誤解したらどうするの!?」
「誤解したら我輩的には良い方向性じゃ。外堀から埋めていくのはよくある策じゃしのう」
「俺はお城じゃな~い!」
 薫の声に後ろから「外堀から埋めると城が何が関係あるんだ」というアドニスの冷静な質問が飛んでくる。晃牙が「城は堀から攻めてくもんだろ」と意味を説明しているのも益々状況を悪化させている。その注釈にアドニスが手を叩き、なるほど、と言いたげな顔をしてから零に尋ねた。
「つまり朔間先輩は羽風先輩にアピールするのに、本人からではなくファンからの応援から攻めていこうという事なのだろうか」
「アドニスくん、正解じゃ。楽屋に置いてあったチョコレートをあげよう」
 零が食べなかっただけのチョコレートをアドニスに食べさせている中、薫は頬を朱色に染めてハンドルに頭を乗せた。
 ――零に好きだと告げられたのは、三か月ほど前だ。高級なレストランで食事をしている訳でもなく、夜景の見える場所で、などと言った世界中の人間が考えるようなロマンチックな場所ではなくて、珍しく二人ともオフで薫が貯まっていた洗濯物を干しているその瞬間だった。零は寝惚け眼でジャージのポケットに手を突っ込んでいて、薫は外には出ないからと同じく高校時代のジャージにライブのTシャツを着た姿だった。
「なに? ごめん、聞こえなかった」
「うむ。何度でも言おう。薫くん、好きじゃよ。おぬしのことを、好きなんじゃ。友達などではなくて、そう。……同衾したい」
「どうきん」
 同衾とはあれではないか。一つの夜具に一緒に寝ることをそう表現するのではなかったか。そう、男女が性的な関係を。薫の頭の中が辞書の言葉で埋め尽くされていく。干していたのはちょうど零のボクサーパンツで、薫の手は汗で彼の下着を落下させてしまいそうだったが、何とか理性で繋ぎ止めた。マンションから落ちてきたのは、人気アイドル朔間零のパンツだった。そんな見出しと高尚に解説するアナウンサーたちの姿が浮かんだからだ。
 卒業してからすぐに零とマンションの一室で暮らし始め、それから何年も経っている。元々は早朝や午前の仕事に不安があると吐露した零をカバーする為に、事務所側と零の意向から始めた同居生活だったが、今ではすっかり薫の生活に当然の事実として馴染んでしまった。家族とは違うが、悪くは無い同居人という立ち位置に零はなりつつあったのだ。そんな同居人に恋愛的な意味で好きと言われる日が来るとは思ってもいなかったし、零が薫の事を好きな素振りなんてどこにも見当たらなかった。
 けど、零は自分の事を好きだと告げた。元々自分の意思をひた隠しにすることに長けた男だ、彼の言う『好き』も上手に宝物庫とやらの奥深くに隠しこんでいたのだろう。なぜかそれを今頃、この瞬間に言い出したことに関しては分からないが。
 薫はパンツを何とかピンチハンガーに干して、自分のシャツに手を伸ばした。零も満足したのか薫が机の上にラップをして置きっぱなしにしていた朝食――もう昼食の時間に近いのだが――に顔を綻ばせている。
「朔間さん、お昼はうどん作るから食べないでよ」
「これも食べてうどんも食べる。我輩、そこまで食べられん事は無いぞ? 薫くん、うどんはあれを入れよう。鶏肉」
「入れるつもりだったから安心してね~。……ねえ、朔間さん」
 薫の声に零は付け合わせのプチトマトをちょうど口に半分ほど放り込んだところだった。零の指先が赤に染まり始めている。薫を見つめながら親指をその長い舌で舐める姿に、薫はおもわず背筋が震えた。それを隠すように、疑問を問う。
「ねえ、なんでこのタイミングでそれを言ったの」
 どの話をしているかは、零は分かっているだろう。彼は残り半分のトマトを口の中に入れて、しっかりと味を噛み締めた後に微笑んだ。
「起きたら、薫くんが洗濯物を干していた。その背がやけに愛おしく思えた。……その姿をずっと見ていたい。いつか薫くんは我輩の手からすり抜けてしまうだろう。おぬしが嫌うと分かっておっても、縛り付けたくなった」
 それだけだ、と笑うその表情に嘘偽りは見えなかった。薫は何も言えないまま、零が楽しげに朝食を食べるために椅子に座るのを見つめていることしか出来ない。
 まだ零には話していないが、事務所側から「もう零くんも一人でも十分だと思いますよ」と暗に同居生活を解消したらと提案されたのだ。零はそれを察しているのだろうか。薫は言われた時はただぼんやりとそうかなと不思議に思う事しか出来なかった。実際この生活が無くなっても、多分零も薫も変わりはしないだろう。けれど、薫の中にぽっかりと穴が開いてしまいそうだと言うのも本当だ。
 その日はうどんの麺を茹でた。零のリクエストの鶏肉も入れて、かまぼこを切って、白ネギを入れた。そんな昼ご飯を食べて、夕食は冷凍庫に入れていたミートソースを解凍してパスタにした。何でもない日常だった。
 その何でもない日常は昨日終わってしまった、次の日から零が自分にアピールし始めたことからそう気付いたのだった。
 事あるごとに好きです大好きですアピールをしてくるので、晃牙やアドニスにも零は薫に惚の字だ(これは零自らこの言い回しで主張していた)という事は知れ渡っている。二人とも最初は先輩二人が繰り広げている問答に戸惑っていたようだがそれが一日、二日と経つとなるほど夢ノ咲学院の生徒にありがちな迅速な慣れを見せてくる。零は薫の事を抱きたいという意味で好きで、薫はそれから逃げ回っている。それくらいの事なのだと二人が納得するのに時間はあまりかからなかった。
 逆に状況に戸惑っているのは薫だけだ。
「好きじゃよ、薫くんが好きじゃ。我輩の好きなトマト料理をご飯になると一つは作ってあるところ。叩き起こすと言いながら揺さぶる手は優しい所。男はげろげろと言いながらも、突き放す事は無いところ。見えないところで努力をするところ。失敗しても反省し、改善策を出すところ。疲れてうとうとしている癖に、我輩が帰ってくるのを起きて待っていようとしてるところ。それから――」
 ある日の楽屋裏で晃牙が呆れ交じりに薫の好きな所を問うた時の返答がそれだった。その場には薫もいたというのに、全くぶれることなく主張をし、しかもその台詞をまっすぐ薫へと向かって言うものだから薫はたまったもんじゃなかった。
 今だってそうだ。薫はぐっと頭をハンドルに押し付けていると「ブザーが鳴ってしまうじゃろう」とゆっくりと――しかし、迷いのない力で薫の頭部は離される。時刻は二十三時四十六分。零の本番は夜からなのは昔と変わりなく昼間ならば簡単に突き放せるその手も、今はそんなことが出来る筈もなく、否、する気も起きなかった。零がそれを自分の為に言ってくれているのが分かるからだ。ここで変にブザーを鳴らして周りから注目を浴びるのは得策じゃない。どこにどんな人間がいるか分からないから。
 そこまで分かっているのだから、先ほどの生放送で零が発したそれがどれほど軽率だったかは本人が分かっているだろうに。
「なんであんなこと言ったの」
「何度も同じことを言うのはあまり好かんのじゃが……。おぬしがああも追い込まれる必要はないと思っておるよ。DDDの時にも言わんだかえ? おぬしは我がUNDEADに必要だ、と」
「……追い込まれてたかな」
 はっきりと口にされた言葉に薫は唇を噛んだ。それまで何も言ってなかった後輩たちが身を乗り出して薫の肩に手を置いている。おもわず振り返ると二人とも少し不安気に薫を見つめているので、心配をかけていたのだと改めて思い知らされている様だった。隣の零は鞄から薫の好きなハニーミルクティーのペットボトルを取り出して蓋を開けている。それからそれを薫の口元へと持ってきて飲ませようとするので、自分で飲めるとぼやきながらペットボトルを奪って喉へ流し込んだ。ほんの少しのはちみつと、甘いミルクティーの味が薫の身体にじわりと交わっていく様だ。
「おいしい」
 素直に感想を述べると、零は上機嫌だった。飲みながら後部座席の二人の頭を撫でようとすると逃げられてしまう。照れ屋だと笑っていると、零は薫の左手の上へと自身の手を重ねた。
「おぬし、そのメーカーのそれがお気に入りの癖に最近は飲んでも何も言わなかったからのう。……なあ、薫くんや。我輩はここ数か月飽きるほどにおぬしの事を好きだと伝えている。所かまわずじゃ。晃牙やアドニスくんも耳にたこが出来るほどだと自分でも思っている。薫くん、あの発言は別に薫くんの為だけじゃない。二割くらいが薫くんのためで、八割が自分のためじゃ」
「え?」
「嬢ちゃん達にそう思われたらおぬしとて意識をせざるを得ないかと思った。ああも言えば、事務所だって我輩達の同居を続けさせるしかないと考えるだろうと思った。……あわよくば薫くんがこれで惚れてくれんかな、とかも考えた。おぬしのためではない。自分のためじゃ。自分本位な男なんじゃよ。だから、薫くんがそう考えずとも良い。気にしないでおくれ」
 零が空になったトマトジュースの紙パックを車内に置いたごみ箱の中へと入れた。零が自分の為に告げたのだと言っても、薫はもうそれどころじゃなかった。真っ赤な指先がハニーミルクティーのペットボトルを落とさずにいるのは奇跡だ。薫はぐっとこみあげてくる気持ちを必死に押さえつけて、まだ少し冷たい零の手を振り払うこともできずにいる。
 ――何でそんなこと言うの、何でそんな風に言うの。あんたがどれだけ自分のためだって主張したって、その行動の奥底にあるものは俺なんだって思い知らされてるみたいだよ。朔間さんはずるいや。
 薫はペットボトルをドリンクホルダーに置いてから、あのさあ、と思ったよりも震えた声音で零に呟いた。
「俺は、あんたが自分のために言ったとしても嬉しかったよ……。少なくとも、ああ言ってくれてほっとした。俺、誰からも信用されてないのかなと思ったりもしたけど、あの言葉で安心したんだ。……打算で言われたとしても、嬉しい。だってその損得は、俺の事を考えてのことなんでしょ?」
「……薫くん?」
 零が薫の髪をかき上げる。金の髪の下で見える自分は、きっとファンには見せられないくらい蕩けた顔をしているのだろう。だって現に、零が息を飲み込んでいるのだから。それくらい、今の薫を突き動かしている感情はめちゃくちゃだった。ねえ、だって、薫はうまく言葉に出来なかった。
「……朔間さんに好きって言われて、気持ち悪いなんて思わなかった。何でこのタイミングで言ったのかなとかそれぐらいだけで。……朝に弱くて、結構面倒くさくて、地味にわがままで、ずる賢くて、卑怯でさあ」
「良いところ全く無さすぎるのう、我輩……」
 けれど、零の紅玉は期待に満ちている。その言葉の続きを待っている。――ああ、自惚れていいよ、朔間さん!
 薫はうんと笑いながら、その零のじわりと熱を帯びた手首に唇を近付けた。
「だから、好きだよ。……ずるいところ、好き。自分のためって言いながら、結局根っこに俺がいるところ、好きだよ」
 そう呟いたのと同時に、零の指が離れていき薫の頬へと落ちていく。薫くん、と零にしては余裕のない声音に薫は気分が良かった。正直ふと思い浮かんだ言葉を口にしただけで、まだ実感は無いのだ。ただ、目の前の男に愛されているという事実を思い知らされてしまったら、薫も向き合うしかなくて。薫の唇は「いいよ」と告げていて、それを合図にして零に言葉が奪われる。零とのはじめてのキスは、ミルクティーとトマトジュースが混じって散々だった。
 その瞬間に後ろから怒声とドアが勢いよく開かれた音がして、二人はおもわずキスをするのをやめて後ろを振り返る。
「こんなのやってられっか! ざけんな! 俺様はコーヒー買いに行ってくるからそれまでに終わらせておけよ、先輩たち!」
「お、大神、微糖ならば俺も飲める気がする。だから置いていかないでくれ……!」
 晃牙を追いかけていくアドニスの背を見つめて、薫はひっと声が引きつる。流石の零も唖然としていて、二人でぎこちなく視線を交わらせた後に「後で謝ろう」と一字一句違えず口にしてしまって、吹き出してしまった。
 あんまりにも情けなくて、けど愛おしい恋人生活一日目はそんな風に日付を超えていった。

 そうして一瞬で同居生活が、恋人との同棲生活になっていって。めまぐるしい日々だ。別に恋人になったと言っても変わりは無いだろうと思っていた薫だが、現実は違った。
 お互い個人での仕事というものがあり、相手の顔を一瞬でも見れる事が奇跡と言わんばかりの日というのはどうしても発生する。そういう日、薫は手の込んだものは作れないので冷凍食品があると机にメモを置いていくことしか出来なかった。零には申し訳が無いと思いつつ相手も同じような対応だったし、今までそこにお互い触れずにいたのでこれからもそんな風に続いていくものだと思っていたのだ。
 ――恋人という関係になってからすぐ。雑誌の撮影が機材の故障があり、夜遅くまで撮影が延びた日だった。
 薫が遅くなる日は、零には気にしないでいいことを伝えており各々で食事を取るようにしている。帰ってきても食事を取らないでさっさとシャワーを浴びてベッドに直行するのが基本になっているからだ。零も疲労のせいか口数の少ない薫に何かを言うでもなく「おやすみ」だけを言ってそのまま朝を迎える。そういう手筈だったのに、その日は違った。ただいまとこうして二人で生活を始めてからドアを開けたら発するようになっていた挨拶に対して、リビングからわざわざ玄関までやってきて「おかえり」と柔らかに笑う顔に一瞬薫は呆けた。いつもならばリビングで顔を鉢合わせるのに、今日はこんなところでだったのでブーツの紐を解く仕草を途中でやめてしまいまじまじと見つめてしまった。零がきょとんとして、それから首を傾げる。そんな仕草がちょっと可愛いと思ってしまうのは薫のプライドから悔しくて言わなかったけれど。
「……おかえり」
 優しい声におもわず背筋伸ばして彼のまっかな目を見た。しっかりと唇を動かして、喉を震わせる。
「……ただいま」
 言ってから何だかむず痒くて、薫は彼の下がっていく目尻から視線を外した。だからか零の腕が伸びていたことに気付けなくて、薫のリュックはいつのまにやら零の手の中にいた。返して、と言っても聞こえなかった振りをしてすたすたと歩いていく。近くでドアの開く音がしたからきっと薫の部屋にリュックを置いているのだろう。薫は立ち止まっていたが、リュックを置いた零がドアを閉めてこちらを振り返り「遅いけれど夕食を食べよう」と言う声にはっと意識を取り戻しぎこちなく頷いた。ブーツの紐を緩めて脱ぎ、靴箱の中に入れる。いつの間にやら零が用意していたらしい自分用のグレーのスリッパを履きながら、頬へと恐る恐る指を伸ばす。予想したよりも、頬は熱を帯びていた。
 ルームウェアへと着替えダイニングまで行くと、零がお茶碗に白米をよそっていた。机の上には二人分のお味噌汁だ。大根と白葱、それに鮭が入ったそれを見つめていると零がコップにお茶を入れて薫に手渡した。確かに先日鮭が半額になっていたので購入した記憶はあるし、零には冷蔵庫に入っているものは好きにして構わないと伝えているが、こういう風に使用されるとは思っていなかったので、薫は素直に「朔間さんがこういうの作るの意外」と言えば彼は頬をぷくりと膨らませる。
「我輩だって別に料理が出来ない訳じゃないぞ。薫くんのご飯が美味しいから甘えているだけで……」
「はいはい。朔間さんはその気になれば出来る人ってのは知ってるよ~。まあでも結構遅い時間だし、こういうシンプルなのは有難いから……ありがと」
 いつもは食べずに終わるこの時間だが、こうして用意をされていると食欲は湧いてくるものだ。味噌汁のにおいにお腹も空腹を訴えてきているので遠慮なく座ったら、自分の前に座った零が綺麗な形をした手の上に自身の顎を置き少し首を傾けてこちらを見ている。先程から仕草がいちいち愛らしいなと思うそれに薫は若干居心地が悪くなり「なに?」と聞くと、零は首を横に振った。
「簡単に粉末の出汁を入れて、大根を切って、鮭を焼いてから解して入れて。たまにしかせんから、少し疲れたが」
「うん」
「こうして我輩の料理を前にしてお腹が空いたと言って嬉しそうに座る薫くんの顔を見れたから、お釣りが来たなと思っただけじゃよ」
 ――おぬしもいつもこんな気持ちを味わっているのかえ?
 そう続けられたが、薫は取ろうとしていた箸が震えで滑ってそれどころではなかった。おもわずぎゃあと声を上げそうになるのを必死に堪えて零を見つめる。零は変わらず優しい笑みを浮かべて自分を見守っていた。なんだこれ、と薫は焦ってしまう。なんだこれ、なんだこれは、こんなの。薫は何とか箸を掴んだ。それと同時に、零が薫の手に指を伸ばし、ゆっくりと薫の手の輪郭をなぞる。
「……先ほど玄関に迎えに行ったじゃろ」
「うん」
「自分で言うのも何だけど、新婚さんというやつみたいで心地が良かった。薫くんは?」
 聞くのかよ、とおもわず心の中の自分が大声を叫んでいる。自分の中にいるイメージの晃牙がおもいきりツッコミを入れているところだ。自分で新婚と称するのか、しかもそれを相手にも聞いちゃうのか、さっきから何で俺の左手の薬指をこんこん押してるんだよ!?
 たくさん言いたいことはあったけれど、薫はどもりながら、
「お、俺も、思った……」
 と、今更過ぎて取り繕うこともできず素直な自分の気持ちを小さく早口で吐き出せば、気が合うのう、と頷く零の唇に自分の焦りも嬉しいも戸惑いも全部蓋をされてしまったのだ。

 ◇

 そんな風に零と恋人になってから早数か月。
 今までは偶然にも――アドニスは運命の様だと言っていたが――二日連続で続く零と薫の誕生日はバースデーイベントなどと言った最高の稼ぎ時として駆り出されていたのだが、今年は零が「たまにはゆっくりしたい」と珍しく社長にわがままを通した事により二人で丸々二日お休みを頂いている。とうとう近付いている零の誕生日と、零に告げられたことを思い出して薫が唸ってたところでついに晃牙がペットボトルをおもいきり机に叩き付けた。中身は炭酸ジュースなので飲む時の晃牙のことを心配しつつ、彼の顔を確認するとその月の色をした瞳をぎらぎらと輝かせながら「いい加減にしやがれ」と低い声で唸る。
「ど~せ何か悩んでんなら素直に言えっつ~の! 一応あんたら先輩のことは尊敬してるし、憧れてっけどよ! 力になれる事があるんだったら言ってくれた方が俺もアドニスも嬉しいって思ってんだよ!」
「つ、つい最近某雑誌で彼氏にしたい芸能人ランキングで他の人を圧倒的に突き放してナンバーワンに輝いた晃牙くん……!」
「茶化すなコラ! ……マジで大丈夫なのかよ」
 晃牙の静かな問いにおもわず薫は一瞬悩み事を口にしかけたけれど、すぐに首を横に振って微笑んで見せた。きっと晃牙はこれが作り笑いだという事にも気付いているだろうが、それ以上は踏み込むことはしなかった。ただ溜息を吐きだしてから「たまにはレオンに会いに来いよ」とだけ言ってスタジオを出ていく。いつでも遊びに来ていいという彼らしい物言いに吹き出してから、薫は項垂れた。後輩に心配をかけてどうするのだ。これが仕事の事だったのならばきっと遠慮なく相談をしたし、それこそ零やアドニスにも声をかけて四人でご飯を食べて話し合ってとしていただろう。
 ただ、今回の場合は仕事ではなく薫個人の問題だし、それこそ今まで素直に言えなくて築き上げてしまった自分のイメージのせいだ。零とくっつく事になったあのスキャンダルの一連もそうだったが、もっと早く、せめてUNDEADの皆にはプライドなんてかなぐり捨てて白状をするべきだったのだろう。今更後悔している。

 九月上旬、誕生日は休みをもぎ取ってきたと意気揚々と帰ってきた零は、洗濯物を畳んでいた薫の背中におもいきり飛びついてきた。薫は畳んだタオルが崩れそうになるのを必死に抑えながら「朔間さん!」と注意するが、零の腕は薫を抱き締めて離す気は無いらしい。癖っ気がある零の柔らかな髪が薫の首筋を刺激し、くすぐったくて声が漏れそうになるのを我慢する。
「薫くん、誕生日はゆっくりとしよう。ここ数年は大忙しじゃったし、ろくにお祝いも出来なかったからの」
「お互いプレゼントもなあなあになること多かったしね……。じゃあ今年は俺、頑張っちゃおうかな~? 朔間さん、何欲しい? そろそろ財布、買い替え時じゃなかったっけ? いつものところで――っ、ぅ」
 首をなぞるように舐められている。目を見開いてから急いで口を手で閉じてから振り返ると、こちらの様子を窺っている零と目が合った。この男の唇は柔らかいのだと痛感したのはいつの事だったか。零の舌に翻弄される度に薫は自分の意識がふわふわとしてしまうのを知っているので、どうもその赤い舌に対して苦手意識を持っていた。その舌が引っ込められ、零の両唇が動く。
「薫くんが欲しい」
「え」
 零の強請るそれに、薫は心臓が飛び跳ねるかと思った程だ。薫はおもわず自分の腰を離そうとしないその零の腕を振りほどこうとしたが、結局彼の手に自分のものを重ねることしか出来なかった。それを零はどう受け取ったのかは分からないが、小さな声で続きを告げる。
「……本音は抱きたい。おぬしが嫌なら、我輩が受け身でも構わぬが。出来たら、薫くんを抱きたい。甘やかしたい。愛したい。……ぐちゃぐちゃな顔が見たい」
 囁かれる零の本音に、薫はどんどんと体温が上がっていくのを自覚する。待って、と懇願しても零の言葉はきっと続くだろう。どうしよう、どうしたら。うんうん唸ってから薫は意を決して、零の後頭部に片手を置いてそのまま彼の顔を自分の方へと無理矢理近付けさせる。強制的に近くなった零のその意地悪な唇の動きを止めるために、薫は自分のものでそれを封じてやった。零が目を見開いた後にうれしそうに薫の上唇に舌を伸ばしてくるので、流石に頭を軽く叩けば彼は渋々とそれをやめてゆっくりと離れていく。
 それでも零はずっと薫の言葉を待っているのだと思うと、息が止まりそうだ。薫は自分の膝を気合を入れるために軽く叩いてから頷いた。
「いいよ」
「……本当かえ?」
「本当。嘘ついてどうするの。……いつまでキスだけで麗らかな青少年してる訳にはいかないし、俺だって考えてたから。それに誕生日プレゼントが俺ってすごいよね、朔間さんの贅沢者」
「そうじゃなあ」
 そう言って、贅沢過ぎて罰が当たりそうじゃ、と薫に唇を落としている零の顔を思い出す。
 言えなかった。きっとここで言うべきだった。後悔しても時すでに遅しという奴だ。
 このご時世、検索はかけた。業界で出来た友人にそれとなく体験談を聞いてみたりした。ネットショッピングで色々と買い揃えた。準備だけは万端だった。でも、心の準備だけはどれだけしても足りないだろう。言えなかった。
 薫は女性が好きだ。しかし、女性に対する抱く気持ちの根っこにあるものが母への想いと憧れがごちゃ混ぜになっているその事実から手を出す気は起きなかった。ふらふらと遊んでいると周りからは思われていたが、夜遊びと言うやつはほとんど経営していたライブハウスの事で相殺されていた。女の子とのデートは美味しいものを食べに行ったり、ゲーセンでプリクラを撮ったり、ファーストフードで話をしたり。一人の女の子に言われたことがある。「薫くんと遊ぶと女友達が一人増えたようだ」と。
 そう、羽風薫は――紛れもなく童貞だった。齢二十二になって、彼が捨てるのが処女だと言う事実と、零にはキスも何もかもを慣れてますという顔を見せ続けていた申し訳なさで、今夜は自分は日本語を発することが出来るかどうかが何よりも不安だった。

 スタジオを出てからスーパーに寄る。零の生まれ年のワインはバレないように隠したが、勘が鋭い人だからもう気付かれている様な気がする。零も最近やっとワインの味に慣れてきたと言うのを聞いて、泉から提案されたそれだが上手く行くかは五分五分と言ったところだ。その分、零の好きな料理を用意して振舞おう。お高い生ハムは冷蔵庫の中で出番を待っているので、今日はトマトとお肉を買ってそれから自分の分のデザートのケーキぐらいだ。いそいそと陳列されている商品を眺めて、悩みに悩んでガトーショコラをかごの中へと入れた。
 会計をさっさと終わらせて、今頃炊けたことを知らせてくれている炊飯器の元へと走らねばならない。マンションから近いこのスーパーでは薫はすっかり顔馴染みで、店員も最初は各々のリアクションを見せてくれたが今では一人のお客様として対応をしてくれている。そういう所が気に入っていた。買い物袋を片手に少し早足で帰路に着く。ほんの一瞬、ドラッグストアの前で立ち止まってしまったが深呼吸をしてから足を動かし始めた。
 ――零は自分よりも遅れた時間に帰ると言っていたが、それでもいつもの平均的な帰宅時間からすれば早すぎる方だ。
 薫はトマトソースの缶詰を缶切りで開けながら鼻歌を歌う。料理をするのは嫌いじゃない。今の時代は男性も料理が出来る方が喜ばれるのだからという下心が見え隠れしていたが、今は純粋に料理に手間暇をかけて出来上がる物への達成感、食べてくれる相手がいるという事実、その相手が美味しそうに食べてくれている。それだけで薫のやる気に火が付いたのだ。先に焼いた鶏肉や玉ねぎ、じゃがいもがごろごろと入っているフライパンの中にトマトソースを余すことなくかけて弱火にしてぐつぐつと煮込んでいく。サラダはシーザーサラダにして、その上に生ハムも乗せてみよう。スープはミネストローネにしようか悩んだのだが、あまりにもトマトに溢れかえっていると思って結局コンソメスープにした。
「美味しく食べられてよね~」
 くすくすと笑いながらフライパンの中の料理に向かってそう囁いた薫だが、自分で言って「食べられる」という台詞に顔を赤らめてしまった。いや、この料理たちも食べられるのだろうけど、俺だって朔間さんに食べられてしまうのだ。恋人同士になってからいつのまにか零の部屋の大きなベッド(何でも凛月が直に寝心地を確認して決めたお墨付きのベッドらしい)でくっついて寝るのが当然と化していた。あの柔らかくてふわふわなベッドの上で、いつもはくっついて寝ているあのベッドの上で、薫は零に抱かれるのだ。そう考えてその場で理由もなくうろうろと歩いてしまった。
 コンソメスープの素を鍋の中に入れて大きくため息をついた。この真っ赤な頬を湯気のせいにしてやろう。ことこととトマトソースが煮込まれる音、コンソメスープの匂いがキッチンに充満する。シーザーサラダ自体はもう出来上がっているし、メインもほとんど終わりのようなものだろう。ワインも机の上に置いて、ワイングラスも磨いたから電球の光が反射してぴかぴかと光っている。薫はコンロを止めて、溜息をついた。
「……ベッド、整えておこ~」

 十九時、零が帰宅した。少し赤みを帯びた頬に酒でも飲んでいたのだろうかと首を傾げるが、今日明日と自分がこの男を独占してしまう形になるのだから零の誕生日前日に誰かしらに声をかけられていても仕方がないだろう。きっと営業込みで飲んでいたのだろうと考え、大目に見るべきだと思いながら薫は「おかえり」と声をかけると零は「ただいま」と頷いた。
 夕食自体は好評だった。美味しい美味しいと零は喜んでぱくぱくとその細い体の中に料理を運んでいく。見た目と違ってよく食べる男だ、これほど嬉しそうに食べられるとやはりこちらとしても気持ちが良い。それから肉料理を出すと目を輝かせて食べる晃牙とアドニスの顔を思い出して、薫は「朔間さん、今度は四人でご飯食べよ」と名前を出してもいないのに零はワイングラスを片手でゆらゆらと動かしながら「焼肉じゃな?」とほくそ笑んでいた。
 自分のワイングラスにも赤ワインを注いで一口味わう。
(これは……う~ん……)
 彼の瞳と同じ赤いワインだが薫には美味しさは正直よく分からなかった。零が味わって飲んでいる様子を見てやはりまだ子供の味覚なのだろうなと少し落ち込んでしまう。昔から甘いものが好きで成人して色々と飲んだが結局カクテルがジュースのように飲めるという理由でそこに落ち着いてしまったのだ。居酒屋に行ってもカクテルがあったらそちらを優先して飲んでいるへべれけになった薫に――そうだ、晃牙がこう言った。
『あんた、カクテルばっかじゃね~か。……気ぃつけろよ。カクテルはジュースみたいに飲める分よォ、酔っ払いやすいんだぞ。羽風先輩は男だけどよ、もしもあんたが女だったらどっかの変態ヤロ~に飲まされて酔わされて連れ込まれてっかもしれねえんだからな』
 そう告げた晃牙に、これ晃牙や楽しんでいる薫くんに水を差すんでない、と零は薫の頭を撫でながら眉を顰める。晃牙の台詞をふと思い出して、きっとあれは皆に守られていたのだろうと今更ながらに気付かされた。晃牙は少し遠回しに忠告して、零は隣で見守っていてくれて、アドニスは何も言わなかった。いつもは薫と同じようにカクテルを飲んでいる事が多いから、珍しくノンアルコールで過ごしているなと酔っ払った頭で思ったのだ。素面であれば自分を見失わないと思ったのだろう。素面であれば、何かがあっても自分は対処が出来ると。
 薫はワイングラスを机の上に置いて項垂れた。突然落ち込んだ様子を見せる薫に零はぎょっとして、それからゆっくりと薫の丸い頭を撫で回してくる。鬱陶しいよと薫が言えば、零はくつくつ笑みをこぼして薫の少しお酒が入ったことにより赤に染まった頬を綺麗な指で突いてきた。
「どうしたんじゃ?」
「……思ったよりも情けない姿を見せてるよなあ~って気付いちゃっただけ」
 学院時代は二人とまともに練習を始めたのも夏以降の話で、それまでは女の子とデートがあるからと逃げ回り続けてきたのだ。今更な話かもしれないが。そんな薫に対して、零はワイングラスを薫の置いたそれの隣にくっつけ、薫の頬を両手の平で上げておでこをくっつけてくる。
「アドニスくんから聞いておるよ。薫くんは返礼祭の時に泣きついてきたのだと言っておったが。きっとあの子たちは慣れっこじゃろう」
「うっ、ううっ……! アドニスくんはすぐに言っちゃうよね……! 黙っててねって言ったのに~!」
 泣き叫ぶ薫の頬をぐりぐりと動かそうとする零は、おそらく薫がたまに晃牙の家に上がり込んでいるのも知っているだろう。晃牙は何も言わずただレオンと遊ぶ薫の分も食事を用意してくれて、夕食を食べては帰る薫を階段下まで見送ってくれる。何も言わずに見守ってくれるその姿は、少し零を彷彿させるのは言ってはいないけれど。薫は目を細めて、零の手のひらにすり寄る。彼の体温が愛おしい。
「かっこいい先輩してたいのに、ままならないなあ」
「……薫くん、そのなあ。何というか。我輩にも限界はある」
「は?」
 低い声が聞こえたと同時に薫から手を離して立ち上がり、椅子に座っている薫の隣にやってきて前屈みをする。あ、と思った時には零に口付けを落とされていた。最初はちゅっ、と小さく音を立てて。彼の真っ赤な目の中にあからさまに動揺している自分がいたが、その彼は零の瞼の中に閉じ込められていく。どうして、と思う暇もなく薫の顎を掴んで、口の中を犯す恋人の熱に薫は溶かされていきそうだ。指がぴくりと震えたら、その震えを抑えるように零の手が包み込む。こんなに荒々しく求めておいて、こんなに優しくされている。薫の脳はとっくの昔に壊れているような気すらしていた。されるがままにされ、零の舌が薫の上の歯をなぞるたびに薫は足を伸ばしてしまう。零が薫にくれるキスはいつもどこか優しくて守られているようなそれだけど――今日は壊されるのではという恐怖すら覚えた。
 そんな薫の気持ちが伝わったのか、零はぱっと薫の顎から手を離すとふらふらの薫を抱き締めて「すまん」と謝罪をする。この流れで何を言い出したのだろうか。薫がふわふわとした頭で耳を澄ましていると「がっつきすぎた」と反省しているようだった。
 薫とすればここまでこの男に求められているのだ、という嬉しさはあるが少し恐ろしかったのも事実だ。いいよ、とその謝罪を受け入れながら零の背を撫でる。
「朔間さんが、その、俺を抱きたいと思ってるの伝わってるし。我慢してるのも分かってる。いいよ」
「……薫くん」
 何だ、こういう時はなんと言えばいいのだろう。セックスをしますという事になったのはこの男が初めてで、薫は正真正銘の処女だし童貞なのだ。セックスの知識は最低限の保健の授業と、女の子たちに借りて読ませてもらった少女漫画と、何となく表面上だけ知っているAVのパッケージぐらいだ。よろしくお願いします、とか?
 一瞬で薫の脳内を色んなものが駆け巡っていく。
「……め、名器だって、言ってたから、だいじょうぶ……」
 口を開いた時ちょうど薫が思い出していたその台詞は、片思いをしている相手となぜかセックスをする事になった主人公が咄嗟についた無理のある嘘の台詞で、薫はその思い出した漫画がティーンズラブというなかなか描写が過激な漫画であることを知らなくて。読み進めてそのシーンの次のページから速攻で本を閉じたのもあって、やけに覚えていたのが悪かった。
「…………あぁ?」
 零の口調が荒くなったことにより、あ、いやさっきの間違いです嘘ですと言おうとした時には零によって机の上に乗せられていたのだった。